Pipopa Organization

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我々の認識の共同性について。


 廣松渉先生の世界の共同主観的存在構造を今読んでいる。序章を読み終え、そこで、思った所を纏める。

 自分のために記す、かなりラフな記事で或ることをお断りしておく。


  • 以下には文化的背景からの主観の相違に関してだけに限り文を書く


 わたしがなんらかのものを認識するとして、

たとえば、リンゴを食べるとして、もしくは、その前にリンゴを見て、手に取るとして、

間違いなくわたしはリンゴを認識しただろう。そして、あなたがそのときわたしのすぐそばにいたとすれば、わたしはあなたもリンゴを認識していることを受け入れるだろう。

 わたしは何がいいたいのか? つまり、この場合、あなたにとっても、わたしにとってもリンゴはリンゴなのだ。

 でも、もしあなたが、日本語のまったくできないアメリカ人だったら?

 あなたが、アメリカ人だったとしたら、自分の国の言葉でリンゴについて考え・思うだろうし、アメリカ人が英語でリンゴについてどうこう考え・思うことは、日本人が日本語でリンゴについて考えるのとは、完全に同じとはいかないだろう。

 我々はなんらかのものが存在する場合、今回の場合”リンゴ”が存在する場合、だれしもそれをリンゴと思うだろうと思うかもしれないが、その人の母語や障害の有無(目が見えないなど様々な)、によって大きな影響を受けるということ。

 たとえを変えて書いてみる。

 日本語をきいたことのない人に日本語をきいてもらうとして、英語母語者とイタリア語母語者では違った反応があるだろうし、そりゃ違った反応があるのは当然だけど(人間はみんな違う生き物だからね)、この場合違うといいたいのは、英語母語者ならこういう認識の傾向があり、イタリア語母語者はこういう認識の傾向があり、そういった観点からみて、英語母語者とイタリア語母語者が日本語をきいたときどう感じるかは違うということ。

 へたなたとえだったろうか。

 わたしがここでいいたいことは、各々の認識というのは先天的な認識能力や判断能力や、後天的なそれらと簡単にいえるものではなく、その人の言語とそのときの文化など、さまざまな要素によって、第一印象からして変わってくる。馬のなきごえや犬の吠える声をどう表現するかが、国によって多少ずれがあるように。

 人はそれぞれ違う人間だけど、言語やそのときの文化に認識は大きな影響を受けるし、今日の日本人は今日の日本人同士で共通する共通項をもつ、認識主体としての。

 これを結論として、この試論を終える。最後まで読んでくれてありがとう。