引用。村上春樹全作品 1979~1989〈1〉 風の歌を聴け;1973年のピンボール

書名:村上春樹全作品 1979~1989〈1〉 風の歌を聴け;1973年のピンボール

著者:村上春樹

出版社:講談社 (1990/5/18)

引用、文書入力:Pipopa

書籍情報出典:Amazon.co.jp

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 「二つの対立する考え方があるってわけね?」と208。

 「そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない」

 「殆んど誰とも友達になんかなれっこないってこと?」と209。

 「多分ね」と僕。「殆んど誰とも友達になんかなれない」

 それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。

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 鼠にとって時の流れがその均質さを少しずつ失い始めたのは三年ばかり前のことだった。大学をやめた春だ。

 鼠が大学を去ったのにはもちろん幾つかの理由があった。その幾つかの理由が複雑に絡み合ったままある程度に達した時、音をたててヒューズが飛んだ。そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ。

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 誰もがめいっぱいのトラブルを抱え込んでいるようだった。トラブルは雨のように空から降ってきたし、僕たちは夢中になってそれらを拾い集めてポケットに詰めこんだりもしていた。何故そんなことをしてたのか今でもわからない。何か別のものと間違えていたのだろう。

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 「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね」

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 「幸せだった?」

 「遠くから見れば」と僕は海老を呑み込みながら言った。「大抵のものは綺麗に見える」

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 ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、失くした帽子、子供の頃気に入っていたセーター、古いジーン・ピットニーのレコード……、もはやどこにも行き場所のないささやかなものたちの羅列だ。二日か三日ばかり、その何かは僕たちの心を彷徨い、そしてもとの場所に戻っていく。……暗闇。僕たちの心には幾つもの井戸が掘られている。そしてその井戸の上を鳥がよぎる。

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 「あれが仕事なんだぜ」と僕は説得を続けた。「始めのうちはそりゃ楽しかったかもしれない。でもね、朝から晩まであればかりやってみなよ、だれだってうんざりするさ」

 「いや」と鼠は首を振った。「俺はしないね」

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 ジェイに街を出る話を切り出すのは辛かった。何故だかわからないがひどく辛かった。店に三日続けて通い、三日ともうまく切り出せなかった。話そうと試みるたびに喉がカラカラに乾き、それでビールを飲んだ。そしてそのまま飲み続け、たまらないほどの無力感に支配されていった。どんなにあがいてみたところで何処にも行けやしないんだ、と思う。

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 鼠は笑った。そして二人は何も言わずにコーラとビールを飲んだ。テーブルに置いた鼠の腕の時計が不自然なほどの巨大な音を立て始める。十二時三十五分、おそろしく長い時間が流れてしまったようでもある。ジェイは殆んど動かなかった。鼠はジェイの煙草がガラスの灰皿の中で吸口まで灰になって燃え尽きるるのをじっと眺めていた。

 「何故そんなに疲れたんだい?」と鼠は訊ねてみた。

 「さあね?」ジェイは言って、思い出したように足を組みかえた。「理由なんて、きっと何もないんだろう」

 鼠はグラスに半分ばかりビールを飲み、ため息をついてそれをテーブルに戻した。

 「ねえジェイ、人間はみんな腐っていく。そうだろ?」

 「そうだね」

 「腐り方にはいろんなやり方がある」鼠は無意識に手の甲を唇にあてる。「でも一人一人の人間にとって、その選択肢の数はとても限られているように思える。せいぜいが……二つか三つだ」

 「そうかもしれない」

 泡を出しきったビールの残りは水たまりのようにグラスの底に淀んでいた。鼠はポケットから薄くなった煙草の箱を取り出し、最後の一本を口にくわえる。「でも、そんなことはどうでもいいような気がし始めた。どのみち腐るんじゃないかってね、そうだろ?」

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 ジェイはコーラのグラスを傾けたまま、黙って鼠の話を聞いていた。

 「それでも人は変わり続ける。変わることにどんな意味があるのか俺にはずっとわからなかった」鼠は唇を噛み、テーブルを眺めながら考え込んだ。「そしてこう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程にすぎないんじゃないかってね。違うかい?」

 「違わないだろう」

 「だから俺はそんな風に嬉々として無に向おうとする連中にひとかけらの愛情も好意も持てなかった。……この街にもね」

 ジェイは黙っていた。鼠も黙った。彼はテーブルの上のマッチを取り、ゆっくりと軸に火を燃え移らせてから煙草に火を点けた。

 「問題は」とジェイが言った。「あんた自身が変ろうとしてることだ。そうだね?」

 「実にね」

 おそろしく静かな何秒かが流れた。十秒ばかりだろう。ジェイが口を開いた。

 「人間てのはね、驚くほど不器用にできてる。あんたが考えてるよりずっとね」

 鼠は瓶に残っていたビールをグラスに空け、一息で飲み干した。「迷ってるんだ」

 ジェイは何度か肯いた。

 「決めかねてる」

 「そんな気がしてたよ」ジェイはそう言うと、しゃべり疲れたように微笑んだ。

 鼠はゆっくり立ち上がり、煙草とライターをポケットにつっこんだ。時計は既に一時をまわっていた。

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 「さあね? この世の中には我々の哲学では推し測れぬものがいっぱいある」

 彼女はテーブルに頬杖をついて考え込んだ。

 「ピンボールは上手いの?」

 「以前はね。僕が誇りを持てる唯一の分野だった」

 「私には何もないわ」

 「失くさずにすむ」

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 「いつかは失われるものにたいした意味はない。失われるべきものの栄光は真の栄光にあらず、てね」

 「誰の言葉?」

 「誰の言葉かは忘れたよ。でもまあそのとおりさ」

 「世の中に失われないものがあるの?」

 「あると信じるね。君も信じた方がいい」

 「努力するわ」

 「僕はあるいは楽観的すぎるかもしれない。でもそれほど馬鹿じゃない」

 「知ってるわ」

 「自慢してるわけじゃないが、その反対よりはずっといいと思ってる」

 彼女は肯いた。「それで今夜はピンボールをやりに行くのね」

 「うむ」

 「両手を上げて」

 僕は天井に向って両手を上げた。彼女は僕のセーターの腋の下をじっと点検した。

 「オーケー、行ってらっしゃい」

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 辺りはまったくの暗闇に変わっていた。それも単色の闇ではなく、様々な絵の具をバターのように厚く塗り込めた暗闇だった。

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 鼠は水で冷やされたグラスにビールをゆっくりと注ぎ、一口で半分ばかり飲んだ。「何故ここじゃだめなのかって訊かないのかい?」

 「わかるような気はするからね」

 鼠は笑ってから舌打ちした。「なあ、ジェイ、だめだよ。みんながそんな風に問わず語らず理解し合った世界に留まりすぎたような気がするんだ」

 「そうかもしれない」しばらく考えてからジェイはそう言った。

 鼠はビールをもう一口飲んでから、右手の爪を切り始めた。「ずいぶん考えたんだ。何処に行ったって結局は同じじゃないかともね。でも、やはり俺は行くよ。同じでもいい」

 「もう帰って来ないのかい?」

 「もちろんいつかは帰って来るさ。いつかはね。別に逃げ出すわけじゃないんだもの」

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 「ま、いろいろあったものね」ジェイは戸棚に並んだグラスを乾いた布で拭きながら何度も肯いた。「でも過ぎてしまえばみんな夢みたいだ」

 「そうかもしれない。でもね、俺が本当にそう思えるようになるまでにはずいぶん時間がかかりそうな気がする」

 ジェイは少し間をおいて笑った。

 「そうだね。時々あたしはあんたと二十も歳が離れてるのを忘れちまうんだよ」

 鼠はビールの残りをグラスに空け、ゆっくり飲んだ。こんなにゆっくりビールを飲んだのは初めてだった。

 「もう一本飲むかい?」

 鼠は首を振った。「いや、いい。これが最後の一本のつもりで飲んだんだ。ここで飲むビールのさ」

 「もう来ないのかい?」

 「そのつもりだよ。辛くなるからさ」

 ジェイは笑った。「またいつか会おう」

 「今度会った時には見分けがつかないかもしれないぜ」

 「匂いでわかるさ」

 鼠はきれいになった両手の指をもう一度ゆっくりと眺め、残った落花生をポケットにつっこみ、紙ナプキンで口を拭ってから席を立った。

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 ジェイに話してしまった後で、たまらないほどの虚脱感が彼を襲った。辛うじて身をひとつに寄せ合っていた様々な意識の流れが、突然それぞれの方向に歩み始めたようでもある。何処まで行けばそれらの流れがまたひとつに巡り合えるものか鼠にはわからない。いずれは茫漠とした海に流れこむしかない暗い川の流れだ。二度と巡り合うこともないのかもしれない。二十五年という歳月はただそのためだけに存在したようにも思える。何故だ? と鼠は自分に問いかけてみる。わからない。良い質問だが答がない。良い質問にはいつも答がない。

Page 253

 テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。

 しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。僕たちがはっきりと知覚し得るものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとても僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ。

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